吉村昭と三陸海岸

ゆかりの深い三陸海岸
~生涯愛した田野畑村~

 吉村昭・津村節子夫妻にとって、三陸海岸はゆかりの深い地域でもありました。結婚間もない昭和29年(1954)、二人は、石巻を出発し、女川、気仙沼、釜石、八戸などの三陸海岸をたどり、北海道の根室まで、行商の旅に出ました。生活のために始めた仕事が不況で行き詰まり、大量のメリヤス製品を売りさばくためでした。放浪にも似たこの旅で、三陸の風土を知り、土地の人の温かい心にも触れました。旅の思い出は、後に津村の連作長篇「さい果て」の題材となり、数々の随筆に記されました。
 また、三陸海岸の中でも、深い結びつきが生まれた田野畑村(岩手県下閉伊郡)は、吉村が生涯愛した地でした。昭和40年、創作と会社勤めの両立の難しさから、発想の枯渇を感じた吉村は、三陸海岸を一人旅し、田野畑村の鵜の巣断崖を訪れます。濃紺の海と砕け散る波に刺激され、短篇「星への旅」を執筆しました。翌41年、「星への旅」で第2回太宰治賞を受賞し、田野畑村は、小説家としての出発点となりました。以降、田野畑村の雄大な自然と村民の美しい心に魅了され、毎年夏になると、家族を伴い、村を訪れ、心安らぐ時を過ごしました。田野畑村を訪れたことで、「三陸海岸大津波」のほか、短篇小説や歴史小説、随筆も執筆しています。平成2年には吉村が、平成31年には津村が、田野畑村の名誉村民となりました。

〜吉村昭が旅した主な地域〜

【東日本大震災概要】

東日本大震災は、平成23年(2011)3月11日14時46分頃に発生。三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmを震源とする地震で、マグニチュード(M)は、昭和27年(1952)のカムチャッカ地震と同じ9.0でした。これは、日本国内観測史上最大規模、アメリカ地質調査所(USGS)によれば1900年以降、世界でも4番目の規模の地震でした。本震による震度は、宮城県北部の栗原市で最大震度7が観測された他、宮城県、福島県、茨城県、栃木県などでは震度6強を観測し、北海道から九州地方にかけて、震度6弱から震度1の揺れが観測されました。
今回の大震災では、岩手、宮城、福島県を中心とした太平洋沿岸部を巨大な津波が襲いました。 各地を襲った津波の高さは、福島県相馬では9.3m 以上、岩手県宮古で8.5m 以上、大船渡で8.0m以上、宮城県石巻市鮎川で7.6m以上などが観測(気象庁検潮所)されたほか、宮城県女川漁港で14.8mの津波痕跡も確認(港湾空港技術研究所)されています。また、遡上高(陸地の斜面を駆け上がった津波の高さ)では、全国津波合同調査グループによると、国内観測史上最大となる40.5mが観測されました。
(内閣府 防災情報のページ みんなで減災「特集 東日本大震災」より抜粋)


菊池のどかさんのメッセージ
~釜石市鵜住居うのすまい町より~

荒川区と交流のある釜石市で、防災ガイドや語り部として活動する菊池のどかさんに、東日本大震災での経験や、現在、取り組んでいる防災教育、未来へ向けてのメッセージをうかがいました。

菊池のどかさん
平成7年岩手県釜石市生まれ。岩手県立大学総合政策学部卒。釡石市立釜石東中学校2年の時に釜石市鵜住居地区で東日本大震災を経験。前職は、「いのちをつなぐ未来館」で防災ガイド・語り部として活動。令和2年には釜石市を訪問した荒川区中学校防災部の中学生たちに津波の実状や避難・防災時の教訓を伝えた。現在は、学生時代から災害支援に取り組んだ経験をもつ仲間たちと、釜石市鵜住居町にある株式会社8kurasuで、防災教育に取り組む。

1. 釡石市立釜石東中学校2年の時に経験した東日本大震災発生時の状況について。

菊池さん: 地震が起きたとき、釜石東中学校に隣接する鵜住居小学校の敷地内にいました。周りに友達が3,4人、スクールバスの運転手2名がいました。点呼場所に向かうも、すでに点呼場所に集まっていた生徒が避難を始めたので、私もその列に加わりました。走って「ございしょの里」に避難し、点呼をとりました。度重なる余震により横の崖がくずれ、さらに高台の「やまざきデイサービス」に避難した時、空から轟音が聞こえ地面が揺れ、振り向くと津波が来ていました。大人も子供もなく、「死にたくない」という気持ちだけで山に向かい走りました。

2. 釡石市立釜石東中学校の防災教育の目的は「1・自分の命は自分で守る、2・助けられる人から助ける人へ、3・防災文化の継承」。同校と、隣接する鵜住居小学校の生徒は、全生徒が無事に避難した。日常で行われていた防災授業を、それぞれが考え、実践したことによるものだった。菊池さんが感じた釜石東中学校での防災授業について。

菊池さん: 津波という言葉は知っていても、なぜ起きるのか、起きたらどのような生活になるのかなど、何も知りませんでした。ですので、津波に関する全てが新たに知ったことでした。知らないことは悪いことのように思われがちですが、私たちは知らないからこそ知りたいと思い、人が亡くなるのを見ていないから恐怖を感じずに、楽しいと思い、学習できたように思います。

3. 震災の体験から心がけていることや、防災や避難訓練について重要だと感じること。

菊池さん: 日常生活の中で心がけていることは、必ず「ありがとう」を伝えることです。防災について勉強すると、専門用語を使い、どんどんマニアックな方向に進んでいきますが、どれだけみんなに分かりやすく日常的に考えられるものにハードルを下げていくかが重要なのだと思います。孤立させないこと、わからない・逃げられない、などの声を上げやすい環境を整えることも必要と感じます。

4. 吉村昭『三陸海岸大津波』の感想。

菊池さん: 令和元年秋頃に寄贈されたことをきっかけに拝読しました。自分が東日本大震災を経験する前に、知っていればよかったと思うことが多かったと思います。震災前、津波に関する釜石市の記録等は限られており、中学生が一人で調べるにも資料が限られていると苦労した覚えがあります。もっと早く知っていたらと思いました。

5. 『三陸海岸大津波』を、まだ読んでいない方への、この本に関するメッセージ。

菊池さん: この本の最後の言葉(注)にハッとしました。私たちは、今の私たちのように苦しんだ先祖たちの気持ちを踏みにじってしまったのかもしれないと思いました。伝承が途絶えたころ、また同じような災害が起きるかもしれない。その時にまた、犠牲になる人がいて、悲しむ人たちがいるかもしれない。生きているうちに伝承が途絶えないよう、もし、途絶えても助かるようにしなければならないと感じました。
(注)「津波は、時世が変ってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」
(明治29年、昭和8年、昭和35年の津波、昭和43年の十勝沖地震津波等を経験した岩手県田野畑村の早野幸太郎氏の言葉)

6. 防災ガイド・語り部としての活動に取り組んだ思い。

菊池さん: 東日本大震災発災から、「いのちをつなぐ未来館」では、ガイド・語り部として東日本大震災時に釜石市内で起きた出来事や、私自身の体験談をお伝えしておりました。生きているうちに、真実を自分の声で伝えたいと思ったからです。

7. 現在、取り組んでいる防災教育について。

菊池さん: 自分自身も防災の学習をし直しながら、語り部の活動を続けております。また、語り部だけではなく、自分ごととして捉えてもらうためのワークショップなども行っております。活動を通じ、被災した人から話を聞くことに対して、まだまだ遠慮している人が多いのを感じています。体験を語ろうとする多くの人が、伝えることによって誰かが助かってほしいと思い活動しているので、聞いてもらえたらと思います。

8. 震災の経験や、災害や防災についての学びを伝えることについて。

菊池さん: 震災の経験を語ることと、災害や防災についての学びを届けることは、似ているけれど特性が違うように思います。また、どちらも大切だと思います。震災の経験を伝えることは、災害と向き合う心をつくり、災害・防災について学ぶことは、自分の命を守る方法を知ることにつながると思います。

9. 故郷の釜石市で活動を続けている菊池さんの、地域の方との繋がりや、故郷への思いについて。

菊池さん: 客観的に地域との繋がりを感じることもないくらい、地域の中で地域の一人として過ごしてきました。地域の人たちからは、人として生きることについて教わりました。今思えば、地域の人たちから、たくさん愛されて育ってきたので、今まで自分自身の命を大切にできたのかもしれません。私は大人になり、周りは高齢になり亡くなっていきます。亡くなるときに、少しでも幸せだったと思ってもらえるように、今度は私たちが愛情をもって接したいと思います。

10. 東日本大震災から10年を経た今、未来に向けて、若い学生や、震災を知らない子どもたちへのメッセージ。

菊池さん: 自分の住んでいる町をよく見て知ってください。町の人たちとお話ししてみてください。みんなの命はとても大切なので、大事に生きてください。

吉村昭が取り上げた主な災害―その関連作品・講演と略年譜

 吉村昭の身近には、幼少の頃から、死がありました。自らも空襲を生きのび、結核闘病の末、死の危険を伴う肋骨切除の手術を受けます。こうした体験は、吉村作品の根底をなすものでした。文学への初志を貫き、生涯、「死とはなにか、生とはなにか」を主題に人間の本質を探究し、数多くの短篇と長篇を執筆しました。
 自然災害を記した最初の作品は、昭和45年に書き下ろした『海の壁』(後改題『三陸海岸大津波』)です。その3年後、『関東大震災』を刊行しました。以降、取材や調査で得た避難時の心得や防災の知見を、随筆や講演で繰り返し語りました。
*以下、『三陸海岸大津波』、『関東大震災』、三陸海岸とのゆかりに関する箇所は青字で示した。

明治29年

6月15日、明治三陸地震津波発生

大正12年

9月1日、関東大震災発生

昭和2年

0歳 5月1日、東京府北豊島郡日暮里町大字谷中本(現東京都荒川区東日暮里6丁目)に、製綿工場を経営する父隆策、母きよじの八男として生まれる。兄二人が幼時に死亡し、兄五人姉一人がいた。日暮里町で関東大震災に遭遇した両親は、震災の夜にスイトンを食べた経験から、毎年、9月1日の夕食をスイトンと決めた。吉村は、幼時のころから関東大震災の話を聞いて育った。

昭和4年

2歳 8月、ドイツの世界一周飛行船ツェッペリン号が東京上空を飛行するのを見、ラジオで実況放送を耳にする。これが幼時の最初の記憶となる。弟隆が生まれる。

昭和6年

4歳 8月、姉富子が7歳で病死。

昭和7年

5歳 4月、日暮里町大字金杉(現東日暮里5丁目)の神愛幼稚園に入園。

昭和8年

3月3日、昭和三陸地震津波発生

昭和9年

7歳 4月、東京市立第四日暮里尋常小学校(現荒川区立ひぐらし小学校)に入学。

昭和14年

12歳 4月、父方の祖母てるが死去(74歳)。

昭和15年

13歳 4月、私立東京開成中学校(現開成中学校・高等学校)に入学。

昭和16年

14歳 8月、五兄敬吾が中国戦線で戦死(23歳)し、4カ月後の太平洋戦争開戦直後に遺骨が帰還。12月中旬、肋膜炎を発病し、学校を欠席。

昭和17年

15歳 1月下旬、学校に通い始める。4月、物干し台で凧揚げをしているとき、東京初空襲の米軍機B25を目撃する。

昭和19年

17歳 前年、父が日暮里町4丁目(現東日暮里5丁目付近)に新築した隠居所に、弟と移る。学徒勤労動員が実施され、隅田川沿いの毛皮革会社で獣皮のなめし作業に従事する。5月上旬、高熱と激しい胸痛におそわれ、肺浸潤と診断される。9月まで病臥、欠勤する。8月、母がガンのため死去(54歳)。

昭和20年

18歳 3月、病欠による出席日数不足で中学5年の留年が決定していたが、戦時特例により繰上げ卒業となる。4月、夜間空襲により家が焼失。浦安町(現千葉県浦安市)で木造船工場を経営する長兄の家に寄宿し、造船所の仕事に従事する。8月上旬、徴兵検査を受け、第一乙種合格。8月15日、終戦を告げる玉音放送を浦安の路上で聞く。9月、父の紡績工場がある足立区梅田の社宅に移る。12月、父がガンのため死去(54歳)。

昭和22年

20歳 4月、旧制学習院高等科文科甲類に入学する。俳文学の岩田九郎教授指導の句会に参加する。秋頃より、激しい疲労と微熱で勉学が困難になる。

昭和23年

21歳 1月、喀血。絶対安静の身となり、病臥する。結核菌は腸をも侵し、60㎏の体重が35㎏まで減少する。9月、左の肋骨5本を切除する胸郭成形術を受ける。11月退院。

昭和24年

22歳 5月から10月まで、栃木県奥那須温泉で療養する。

昭和25年

23歳 4月、健康を回復し、学習院大学文政学部に入学する。文芸部に所属し、放送劇「或る幕切れ」を「学習院文芸」第一号に発表する。11月、高熱を発し、結核の再発かと恐れたが、肺炎と分かり、結核は完治と診断される。

昭和26年

24歳 「学習院文芸」に「土偶」「死まで」を発表。この頃から文学を志す。学習院の先輩である三島由紀夫を、文芸部の仲間と訪ねる。学習院大学短期大学部から大学の文芸部に参加してきた北原節子(後の津村節子)と出会う。10月、古今亭志ん生らを招いて、文芸部主催の古典落語鑑賞会を開催。以後、4回実施する。

昭和27年

25歳 文芸部委員長になる。「学習院文芸」を「赤絵」と改称し、「死體」「金魚」を発表。この頃、川端康成と梶井基次郎の作品に傾倒し、短篇小説をしきりに筆写する。

昭和28年

26歳 1月、同人雑誌「環礁」に参加し、2カ月後に退会。3月、大学を中退し、三兄の紡績会社に入社(10月末退社)。11月5日、北原(津村)節子と結婚し、豊島区池袋のアパートに居を定める。

昭和29年

27歳 同人雑誌「炎舞」を創刊。夫婦ともに同人雑誌を舞台に執筆に取り組む。前年秋に紡績会社を辞めてから始めた仕事が、不況の影響で行き詰まる。取引先から代金の代わりに届いた大量の衣類を売りさばくため、9月から年末まで、東北、北海道へ行商の旅に出る。放浪にも似たこの旅に、途中から津村も同行。夫婦で石巻から三陸沿岸をたどり、北海道の根室まで旅した。<写真 新婚の頃の吉村と津村 津村節子氏蔵>

昭和30年

28歳 10月、長男誕生。

昭和35年

33歳 4月、長女誕生。 5月24日、チリ地震津波発生。

昭和38年

36歳 1月、生活のため次兄の繊維会社に勤務する。

昭和40年

38歳 7月、津村が「玩具」で芥川賞を受賞。9月、次兄の会社を退社し、三陸海岸へ一人旅し、岩手県下閉伊郡田野畑村も訪れる。この旅が刺激となり、「星への旅」を執筆。<写真 文学碑「星への旅」の碑文(裏面) 津村節子氏寄託資料>

昭和41年

39歳 6月、応募していた短篇「星への旅」が第2回太宰治賞を受賞する。8月、『星への旅』(筑摩書房)刊行。以降、毎年夏になると家族を伴い、田野畑村を訪れて憩いの時間を過ごす。9月、「戦艦武蔵」が「新潮」に一挙掲載され、単行本がベストセラーとなる。『戦艦武蔵』刊行。

昭和43年

41歳 『零式戦闘機』刊行。作品の終盤で昭和東南海地震(昭和19年12月7日発生)の惨状を描いた。短篇集『海の奇蹟』刊行。表題作「海の奇蹟」で田野畑村の情景を描いた。

昭和45年

43歳 『海の壁』(後改題『三陸海岸大津波』)刊行。田野畑村で村民から聞いた津波の話や、防潮堤の光景に強い関心をもち、明治29年、昭和8年、同35年に三陸沿岸を襲った大津波の実態を記した。

昭和47年

45歳 5月、「関東大震災」の連載開始(翌年6月まで 「諸君!」 文藝春秋)。本所被服廠跡の生存者による「一二九会」の会員や、吉原公園の惨事に遭遇した芸妓への取材と、膨大な資料調査を重ね、執筆した。『精神的季節』(講談社)刊行。「スイトン家族」収録。

昭和48年

46歳 『関東大震災』刊行。11月、「戦艦武蔵」「関東大震災」など、一連のドキュメント作品により菊池寛賞を受賞。

昭和49年

47歳 自伝的長篇小説『一家の主』(毎日新聞社)刊行。「引越しのこと」では、関東大震災を忘れないために、9月1日の夕食をスイトンと決めた父親と、家庭の様子を描いた。

昭和54年

52歳 『白い遠景』(講談社)刊行。随筆「「関東大震災」ノート(一)」、「「関東大震災」ノート(二)」収録。『蟹の縦ばい』(毎日新聞社)刊行。関東大震災の火災被害の要因を語る随筆「薬品と車」収録。

昭和59年

57歳 中公文庫より、『海の壁』を『三陸海岸大津波』と改題して刊行。

昭和60年

58歳 『東京の下町』(文藝春秋)刊行。「其ノ十五 説教強盗その他」では、関東大震災を体験した両親、祖父の話と共に、火災被害の実状と教訓を記す。

昭和62年

60歳 9月、随筆「上野と関東大震災」(「うえの」通巻341号 上野のれん会)発表。上野周辺の被害状況を記した。また、吉原公園から上野公園まで避難した生存者の証言から、避難場所の選定についての教訓を語った。

平成2年

63歳 8月、岩手県田野畑村の名誉村民となる。 歴史小説『幕府軍艦「回天」始末』(文藝春秋)刊行。戊辰戦争で、旧幕府軍が新政府軍を奇襲した宮古湾海戦を描いた。敗走した旧幕府軍の「高雄」が田野畑村の海岸に座礁したことを知り、執筆した。

平成5年

66歳 短篇集『法師蟬』(新潮社)刊行。収録作品「海猫」では、舞台となる北国の漁村として、田野畑村の光景を描いた。8月20日、「大都市対策シンポジウム」で、講演「小説『関東大震災』を書いて」を行う。

平成6年

67歳 田野畑村のホテル羅賀荘で「吉村昭・津村節子夫妻講演会」が行われる。 吉村は「歴史小説うらばなし」、津村は「創作ノートについて」。

平成7年

68歳 1月17日、阪神淡路大震災発生。1月21日、「朝日新聞」(夕刊)に「生かされなかった関東大震災の教訓 危険な車の移動なぜ繰り返す」寄稿。1月23日、出演番組「視点・論点 生かされない教訓」(NHK)放送。関東大震災の火災被害の教訓を語る。3月、「文藝春秋」に随筆「歴史はくり返す」発表(『わたしの取材余話』収録)。

平成8年

69歳 『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』刊行。日露和親条約締結に向けての交渉の最中に発生した安政東海地震(嘉永7年11月4日発生)を描いた。9月、田野畑村鵜の巣断崖展望台付近に文学碑「星への旅」建立。<写真 文学碑「星への旅」 写真提供 田野畑村>

平成10年

71歳 短篇集『遠い幻影』(文藝春秋)刊行。収録作「梅の蕾」は、田野畑村の医師、将基面誠氏の実話を基に創作。村に赴任した医師と妻子、村民との深い心の結びつきを描いた。

平成12年

73歳 『私の好きな悪い癖』(講談社)刊行。随筆「『関東大震災』の証言者たち」収録。

平成13年

74歳 1月、田野畑村のホテル羅賀荘で、第12回三陸地域づくり講座の基調講演 「三陸大津波-災害と日本人-」を行う。『東京の戦争』刊行。「空襲のこと〔後〕」では、関東大震災を体験した父親の火災に対する教訓を記す。

平成14年

75歳 短篇集『見えない橋』刊行。収録作「漁火」では田野畑村の海や漁村の情景を描いた。

平成15年

76歳 『縁起のいい客』(文藝春秋)刊行。関東大震災の火災被害の教訓を語る「被害広げた大八車」収録。

平成16年

77歳 4月20日、日本災害情報学会創立5周年記念シンポジウムで、講演「関東大震災が語るもの」を行う。災害時の火災対策、道路確保の重要性を語る。10月23日、新潟中越地震発生。
文春文庫より『三陸海岸大津波』が再び文庫化される。

平成18年

79歳 7月31日、吉村昭永眠。

平成19年

『ひとり旅』(文藝春秋)刊行。「高さ50メートル 三陸大津波」、新潟中越地震に関する随筆「被災地の錦鯉」収録。

平成21年

『七十五度目の長崎行き』(河出書房新社)刊行。 随筆「陸中海岸の明暗」収録。

平成22年

『わたしの取材余話』(河出書房新社)刊行。「小説の舞台としての岩手県」収録。『味を訪ねて』(河出書房新社、後改題「味を追う旅」)刊行。田野畑村の魅力を語る「美しき村に家族と遊ぶ」収録。

平成23年

3月11日、東日本大震災発生。『三陸海岸大津波』と『関東大震災』が注目を集め、大震災発生から半年で20万部以上の増刷となる。津村節子が報道各社の取材を受け、吉村の志を伝える。田野畑村では、吉村・津村が寄贈した本を収めた図書コーナーがある島越駅舎が全壊する。『履歴書代わりに』(河出書房新社)刊行。田野畑村の乳牛のオーナーになったことを語る随筆「牛を持つ」収録。

平成24年

6月、津村が田野畑村と宮古市田老を訪問し、11月から「三陸の海」を連載(翌年6月まで 「群像」 講談社)翌年『三陸の海』(講談社)刊行。

平成25年

全国文学館協議会の加盟館による共同展示「3.11文学館からのメッセージ」が始まり、荒川区も毎年参加する。
6月11日、天皇陛下が日暮里図書館のミニ企画展<吉村昭「海の壁」(後改題「三陸海岸大津波」)と「関東大震災」>を御観覧。

平成27年

津村の寄贈により、再建された田野畑村島越駅舎に、「吉村昭文庫」が再び開設される。<写真 再建された島越駅舎 写真提供 田野畑村>

平成29年

生まれ育った荒川区に荒川区立ゆいの森あらかわ吉村昭記念文学館開館。常設展示特集コーナー「自然災害と人間の営み」では、『三陸海岸大津波』や『関東大震災』の資料を紹介する。

平成31年

1月、津村節子が田野畑村名誉村民となる。

令和3年

3月11日、東日本大震災発生から10年が経過。3月24日、朝日新聞(夕刊)「時代の栞」で、「三陸海岸大津波」が紹介される。吉村昭記念文学館で企画展「吉村昭と東日本大震災~未来へ伝えたい、災害の記録と人びとの声~」開催(10月16日から12月15日まで)。

【凡例】

吉村昭「自筆年譜」(『吉村昭自選作品集』別巻 平成4年 新潮社)を基に、本展 に関連する吉村昭が取り上げた主な災害と、その関連作品・講演を中心に作成した。