第1章
「三陸海岸大津波」―取材と調査―

『海の壁』(昭和45年 中公新書)は、昭和59年に『三陸海岸大津波』(中公文庫)と改題。平成16年に再び文庫化(文春文庫)された。

 私は、津波の歴史を知ったことによって一層三陸海岸に対する愛着を深めている。屹立した断崖、連なる岩、点在する人家の集落、それらは、度重なる津波の激浪に堪えて毅然とした姿で海と対している。そしてさらに、私はその海岸で津波と戦いながら生きてきた人々を見るのだ。(『三陸海岸大津波』)

 昭和41年(1966)、吉村は、三陸海岸に面した田野畑村(岩手県下閉伊郡)を舞台とする短篇「星への旅」で太宰治賞を受賞した。以降、たびたび田野畑村を訪れる中で、村民から生々しい津波の話を聞いたことがきっかけとなり、津波と三陸沿岸の歴史に関心を抱き始めた。同時に、「異様な」印象を受ける防潮堤にも触発され、津波についての調査を始めた。三陸沿岸を旅して体験者の話を聞き取り、土地の人びとが編纂した記録や「大海嘯被害録」(「風俗画報」)などの資料を収集し、調査を重ね、昭和45年、『海の壁』(後改題「三陸海岸大津波」)を刊行した。明治29年、昭和8年、同35年に三陸沿岸を襲った大津波の実態を、前兆、来襲、被害、余波、救援などの視点から明らかにし、三陸の海と共にある人びとの生と死を記した。
 「一 明治二十九年の津波」では、田野畑村で、早野幸太郎、中村丹蔵の証言を得て、津波の前兆や、高さ50メートルにも及ぶ津波が来襲した事実を記録した。「二 昭和八年の津波」では、宮古市田老の取材で知った『田老村津浪誌』を取り上げ、津波の体験を記した田老尋常高等小学校の児童の作文を収録した。吉村は、作文を書いた荒谷(牧野)アイを訪ねて取材し、荒谷が語る避難の心得を併せて紹介している。
 「三 チリ地震津波」では、大船渡市の漁師による「(津波は)のっこ、のっことやって来た」という証言を記すと共に、『災害と教育 チリ津波は何を教えたか』の作文を収録し、地震の揺れや、前兆とされる現象を感じなくても襲い来る津波の恐ろしさを伝えた。

津波に関する自筆取材ノート
津村節子氏寄託資料

『田老村津浪誌』 田老尋常高等小学校編 昭和9年
岩手県立図書館蔵

「三陸海岸大津波」参考資料
岩手県立図書館蔵

第2章
「関東大震災」―取材と調査―

自筆取材ノート「関東大震災メモ」 津村節子氏寄託資料

『関東大震災』(昭和48年 文藝春秋)

 私の両親は、東京で関東大震災に遭い、幼時から両親の体験談になじんだ。殊に私は、両親の口からもれる人心の混乱に戦慄した。そうした災害時の人間に対する恐怖感が、私に筆をとらせた最大の動機である。(「あとがき」『関東大震災』)

 「海の壁」(改題「三陸海岸大津波」)刊行から2年後の昭和47年(1972)5月、吉村は、「関東大震災」の連載を始めた(~同48年6月、「諸君!」第4巻第5号~第5巻第6号 文藝春秋)。
 大正12年9月1日に発生した関東大震災は、約20万人の命を奪う未曽有の災害だった。関東南部を襲った大地震は、火災を引き起こし、広大な面積を焼失させた。火災による犠牲者は、全体の8割以上を占めた。恐怖と不安を募らせた人びとの心理は、根拠のない「流言」を生み出し、深刻な社会事件へと発展した。吉村は、幼少の頃から、日暮里町(現荒川区東日暮里六丁目)で大震災を経験した両親の話を聞いて育った。中でも、両親が語る「人心の混乱」に「戦慄」を覚え、「災害時の人間に対する恐怖感」を抱いたことが執筆の動機となった。
 連載にあたり、吉村が力を注いだのは、証言収集だった。当時、関東大震災の体験者は、相当な人数に及んだ。そのため、大旋風と、火災によって最も惨状を極めた本所被服廠廠と、逃げ遅れた芸妓たちが火災の犠牲となった吉原公園の2カ所を中心に、生存者を訪ねて取材した。また、『震災予防調査会報告』全6巻をはじめとする膨大な資料を調査し、証言と照らし合わせて検証を重ねた。地震学者の論説や、地震・火災被害、救援、復興途上の課題など、細部にわたり大地震の実状を記した。また、自警団による殺戮や、社会主義者の弾圧と虐殺などの社会事件を丹念に追い、非常時に露呈する人間の本質を探究した。
 『関東大震災』(文藝春秋)を刊行した昭和48年、『戦艦武蔵』(昭和41年 新潮社)『関東大震災』など、一連のドキュメント作品により、菊池寛賞を受賞した。

自筆取材ノート「関東大震災メモ」
津村節子氏寄託資料

震災予防調査会編『震災予防調査会報告』(大正14年~同15年、岩波書店)と『関東大震災の治安回顧』(昭和24年、法務府特別審査局)
津村節子氏寄託資料

『一二九会 一二九会十年の歩み 関東大震災被服廠跡生存者体験記』 復刻版
平成12年 森田辨作発行

第3章
 東日本大震災以後、吉村作品再読
1. 津村節子「三陸の海」

『三陸の海』(平成25年 講談社)

田野畑村鵜の巣断崖
写真提供 田野畑村

(上)平成8年、田野畑村鵜の巣断崖展望台付近に建立された文学碑「星への旅」除幕式に出席した吉村と津村。
(下)昭和47年、島越にて
津村節子氏蔵

平成24年6月、田野畑村と田老を訪問
(左)田野畑村の鵜の巣断崖展望台で海を見つめる津村。
(右)取材手帳を手に、田老の防潮堤に立つ津村と当時の田野畑村村長、石原弘。後ろには、「津波遺構たろう観光ホテル」が見える。
津村節子氏蔵

 私たちは宮古から田野畑へ戻った。堤防のない村のどのあたりまで津波が押し寄せたか確認するためである。島越の海岸へ車を停めて、それから建物が残っているあたりまで坂道を登った。(中略)坂の途中の津波到達地点から見霽かす海岸は、吉村が釣りをしていた突堤も、遊覧船乗場も、親しい友人たちが乗った船に向かって私が手を振った岸辺も、羅賀荘が出来る前に泊っていた粗末な番屋も引きさらった海が、果てしなく広がっていた。(『三陸の海』)

 平成23年(2011)3月11日の東日本大震災発生は、吉村昭がこの世を去ってから5年後のことだった。大震災発生以降、『三陸海岸大津波』と『関東大震災』は注目を集め、半年で20万部以上が増刷されるなど、広く再読された。「三陸海岸大津波」執筆のきっかけとなった岩手県田野畑村は、昭和41年、吉村が「星への旅」で太宰治賞を受賞した小説家としての出発点でもあった。リアス式海岸の屹立した断崖や濃紺の海、雄大な自然と村民の温かさを愛した吉村は、毎年夏になると家族と共に訪れ、憩いの時間を過ごした。
 東日本大震災発生時、妻で作家の津村節子には、雑誌、新聞、テレビ局からの取材が相次いだ。津村は、結婚間もない頃、夫婦で行商の旅をした三陸海岸や、田野畑村の思い出を振り返った。また、「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している」と記された『三陸海岸大津波』を「警告の書」として捉え、吉村の志を広く伝えた。
 平成24年6月、被災状況を案じていた津村は、田野畑村と宮古市田老の防潮堤を訪ね、思い出深い地を巡り、津波の痕跡を取材した。田野畑村の松前沢仮設団地では、津波から避難した状況や、震災から1年を経た心境を聞き、感銘を受けた。この旅を基に、同年11月から「三陸の海」(~翌年6月「群像」講談社)を連載し、平成25年、『三陸の海』(講談社)を刊行した。夫婦にとって縁の深い地となった田野畑村での日々を主軸に、村では「何もかもが、楽しそうだった」という吉村の面影をたどった。「三陸海岸大津波」から津波の記録を紹介すると共に、復興に向かって歩む人びとの思いを描いた。

田野畑村で撮影したアルバム
津村節子氏蔵

津村節子自筆原稿「三陸の海」
津村節子氏蔵

津村節子自筆原稿「三陸の村」
津村節子氏蔵

第3章 東日本大震災以後、吉村作品再読
2. 三陸ゆかりの地から
―宮古市田老、石巻市、東松島市―

〈宮古市田老〉

『いのち 宮古市立田老第一中学校 津波体験作文集
編集/山崎友子 編集協力/宮古市立田老第一中学校
表紙写真撮影/佐々木力也
発行/岩手大学地域防災研究センター 平成25年3月

〈石巻市と東松島市〉

太十郎の上着 奥松島縄文村歴史資料館蔵

 田老町(当時は田老村)には田老尋常高等小学校生徒の作文が残っている。それは、子供の無心な眼に映った津波だが、それだけに生々しいものがある。(中略)これらのすぐれた作文は、田老尋常高等小学校校長木村清四郎をはじめ教員たちの指導でまとめられた貴重な記録で、同校生徒164名、2名の教員の死に対する鎮魂文でもある。孤児となった牧野アイさんの話によると、担任訓導佐々木耕助氏から「ありのままを作文に書け」と言われた記憶があるというが、書く児童も書かせた教員たちも悲痛な思いだったにちがいない。(『三陸海岸大津波』)

作文が伝える震災―宮古市田老

 『三陸海岸大津波』の最終節「津波との戦い」で、吉村は、津波の被害を受ける三陸沿岸の地理とリアス式海岸の特徴を記し、今後も津波による災害が発生することを示唆した。同時に、津波に備えた対策が被害の減少につながったことを挙げ、明治29年、昭和8年の津波で、それぞれ最大の被害を受けた宮古市田老の避難訓練や、防潮堤建設などを取り上げた。取材では、田老の防潮堤を訪れ、『田老村津浪誌』を調査し、昭和8年(1933)の津波を体験した児童の作文から7編を「子供の眼」として『三陸海岸大津波』に収めた。また、作文を書いた一人で、家族7人全員を失った荒谷(牧野)アイを訪ねて取材した。
 東日本大震災後、吉村が取り上げた児童の作文もまた、改めて注目されている。平成25年(2013)に刊行された『いのち 宮古市立田老第一中学校 津波体験作文集』(岩手大学地域防災研究センター)は、同校校長の佐々木力也が、震災を風化させないための「表現活動の一環」として発案したものだった。佐々木は、『三陸海岸大津波』の荒谷(牧野)アイの作文を読み、また、荒谷が語った「作文はいつか、必ず誰かの役に立つ」という言葉に背中を押され、生徒の心に寄り添いながら、作文指導に取り組んだ。
 一方、森健は、『つなみ 被災地の子どもたちの作文集 完全版』(平成24年 文藝春秋)を刊行した。「つなみ 被災地のこども80人の作文集」(「文藝春秋」平成23年8月臨時増刊号)を再編集し、東日本大震災発生から1、2か月後に書かれた岩手・宮城編と、11か月後に綴られた福島編の作文を収めている。森は、『三陸海岸大津波』の作文を参考にし、「いかにこの地震と津波の凄まじさや怖さを伝えるか」を考えた時に、「震災を体験した子供たち自身の手で作文を書いてもらうことこそ一番ではないか」と思ったことを記している。

後世へ受け継ぐ「紺色の衣服」―石巻市、東松島市

 「若宮丸」の船乗り太十郎が、ロシアから持ち帰ったとされる上着は、吉村が保存を訴えたことで、東日本大震災発生時に太十郎の故郷を襲った津波を免れ、現在も奥松島縄文村歴史資料館で保存・展示されている。
 平成15年(2003)に刊行した『漂流記の魅力』(新潮新書)で、吉村は、寛政5年(1793)に石巻を出発し、ロシア領に漂着後、世界一周の末に帰還した廻船「若宮丸」を取り上げた。翌年8月8日、「日本の漂流記について」(『石巻学』6号 令和3年 石巻学プロジェクト)を講演するため、太十郎の故郷、宮城県桃生郡鳴瀬町(現東松島市)を訪れた。執筆時の調査から1年10カ月ぶりに見た太十郎の上着は、展示会での使用や、上着を見たいという見学者が触れたこともあり、傷みが増していた。講演で「あれは、まことに貴重なものです。なんとかならないものでしょうかね」と訴えた吉村は、この経緯を「紺色の衣服」として発表した(「オール讀物」平成16年10月号 文藝春秋)。「ロシア領に漂着した漂流民の持ち帰った唯一の貴重な遺品である」として、調査の際に指先で上着にふれた自身も「その罪の一端を負わなければならず、まことに恥しい思いがした」と記した。太十郎の上着は、「紺色の衣服」が発表されると、鳴瀬町郷土史友の会による町への働きかけにより、平成17年、町の指定有形文化財となった。
 吉村は、上着が保存されることを知らせた大島幹雄(石巻若宮丸漂流民の会事務局長)への礼状に、「漂流民の持帰った唯一のもので、町の文化財指定によりあの衣服が燦然とした輝きを放ち、後の世に伝えられます。皆さまに感謝いたします」と記している。

津波に関する自筆取材ノートより、『田老村津浪誌』の牧野アイの作文を筆写した箇所
津村節子氏寄託資料

自筆メモ「漂流記について」
津村節子氏寄託資料

吉村昭が大島幹雄に宛てた礼状
平成17年2月4日 大島幹雄氏蔵

第4章
 吉村昭が伝えた防災 ―創作、メッセージ、未来へ―

第12回三陸地域づくり講座 基調講演「三陸大津波-災害と日本人-」
「SANRIKU ALL Right」平成13年(2001)3月 三陸国道工事事務所
津村節子寄託資料

 津波というものは、地球上にある限り、必ずやってくるものです。とはいいながら、科学の急速な進歩は、これは当然、考えに入れなければならないと思います。(中略)
 ただ、素朴なことですが、携帯品は持って歩かない。ということは、道路を確保するということ。災害があったら車で逃げない。それも道路を確保する。道というのは災害にとってきわめて大切なものなのです。救援隊も道が確保されていなければ行くことができない。
 そういう素朴な、常識的なことを守ること。警告があったら、それに素直に従うこと。(中略)
 ですから、そういう常識、人間の知恵、それがいちばん大事で、それが道の確保に通じると思います。(第12回三陸地域づくり講座 基調講演「三陸大津波―災害と日本人―」『SANRIKU ALL Right』平成13年3月 三陸国道工事事務所)

 「三陸海岸大津波」や「関東大震災」の調査を通じて、吉村は、防災の見識を深め、その知見や教訓を繰り返し語った。平成13年(2001)、田野畑村の羅賀で開催された第12回「三陸地域づくり講座」の基調講演「三陸大津波―災害と日本人―」では、取材の旅を振り返り、三陸沿岸と津波の歴史を紹介した。また、『田老村津浪誌』に収録された荒谷(牧野)アイの作文を読み上げ、関東大震災の教訓についても語った。津波を知らない世代の聴衆は、講演会場のある羅賀に、高さ50メートルの大津波が来襲した事実を知ると驚き、「おびえた眼を海にむける人もいた」と『三陸海岸大津波』の「再び文庫化にあたって」に記している。
 防災に関するシンポジウムや講演では、「関東大震災」の調査資料である『震災予防調査会報告』を取り上げた。理学博士・中村清二の調査報告に基づき、関東大震災では、薬品の落下が火災を引き起こしたことや、避難時の荷物に火が燃え移り、火災が広がったことを紹介し、対策の重要性を訴えた。また、江戸時代の大火の際には、大八車を取り締まった例を挙げ、道を塞ぎ、引火の危険性がある自動車での避難は禁物であると警鐘を鳴らした。平成7年の阪神淡路大震災発生時には、寄稿やテレビ番組で関東大震災の教訓を語るなど、生涯にわたり伝え続けた。

自筆メモ「関東大震災と乗物」
津村節子氏寄託資料

「上野と関東大震災」
「うえの」昭和62年9月号 上野のれん会

「吉村昭氏記念講演「関東大震災が語るもの」」
「毎日新聞」平成16年4月20日 毎日新聞社