和暦 西暦 事項
昭和2年 1927 0歳 5月1日、東京府北豊島郡日暮里町大字谷中本(現東京都荒川区東日暮里六丁目)に、製綿工場を経営する父隆策、母きよじの八男として生まれる。兄2人が幼時に死亡し、兄5人姉1人がいた。
昭和7年 1932 5歳 日暮里町大字金杉(現東日暮里五丁目)の神愛幼稚園に入園。
昭和9年 1934 7歳 東京市第四日暮里尋常小学校(現荒川区立ひぐらし小学校)に入学。
昭和15年 1940 13歳 私立東京開成中学校(現開成中学校・高等学校)に入学。
昭和19年 1944 17歳 肺浸潤と診断される。8月、母がガンのため死去(54歳)。
昭和20年 1945 18歳 戦時特例により繰上げ卒業となる。4月、夜間空襲により家が焼失。12月、父がガンのため死去(54歳)。
昭和22年 1947 20歳 旧制学習院高等科文科甲類に入学。
昭和23年 1948 21歳 1月、喀血。絶対安静の身となり病臥する。9月、左の肋骨5本を切除する胸郭成形術を受ける。
昭和25年 1950 23歳 学習院大学文政学部に入学する。文芸部に所属。「学習院文芸」に「土偶」「死まで」を発表。この頃から文学を志す。
昭和27年 1952 25歳 文芸部委員長になる。「学習院文芸」を「赤絵」と改称し、「死體」「金魚」を発表。
昭和28年 1953 26歳 大学を中退し、三兄の紡績会社に入社(10月末退社)。11月5日、北原(津村)節子と結婚。
昭和30年 1955 28歳 丹羽文雄主宰の同人雑誌「文学者」に参加し、「靑い骨」を発表。
昭和31年 1956 29歳 小田仁二郎主宰の同人雑誌「Z」に北原(津村)とともに参加。
昭和33年 1958 31歳 最初の作品集『青い骨』を自費出版。「週刊新潮」に短篇「密会」が掲載され、初めて原稿料を得る。
昭和34年 1959 32歳 「鉄橋」が芥川賞候補となる。半年後に「貝殻」が再び芥川賞候補となる。
昭和37年 1962 35歳 「透明標本」が3度目、「石の微笑」が4度目の芥川賞候補となる。
昭和41年 1966 39歳 「星への旅」が太宰治賞を受賞。長篇「戦艦武蔵」が「新潮」に一挙掲載され、単行本がベストセラーとなる。
昭和44年 1969 42歳 三鷹市井の頭に家を新築して転居。ここが終生の居所となる。
昭和48年 1973 46歳 『戦艦武蔵』『関東大震災』など、一連のドキュメント作品により、菊池寛賞を受賞。
昭和54年 1979 52歳 『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞受賞。
昭和60年 1985 58歳 『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞を受賞。『破獄』で読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞の両賞を受賞。
昭和62年 1987 60歳 日本芸術院賞を受ける。
平成4年 1992 65歳 都民文化栄誉章、荒川区区民栄誉賞をそれぞれ受賞。
平成6年 1994 67歳 『天狗争乱』で大佛次郎賞を受賞。
平成9年 1997 70歳 日本芸術院会員となる。
平成11年 1999 72歳 日本文藝家協会理事長(江藤淳)の死去により、理事長代行に就任。
平成12年 2000 73歳 海洋文学大賞特別賞を受賞。
平成16年 2004 77歳 高野長英賞を受賞。日本芸術院第二部(文芸)部長就任。
平成18年 2006 79歳 7月31日、すい臓ガンで逝去。従四位旭日中綬章を受賞。「死顔」が絶筆となる。

※この略年譜は、吉村昭「自筆年譜」(『吉村昭自選作品集』別巻/平成4年/新潮社)、『人物書誌大系41 吉村昭』(木村暢男編/平成22年/日外アソシエーツ)を参考に作成した。